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決勝レポート

僕にとって5回目の挑戦となるルマン24時間耐久レースが終わりました。
帰国の飛行機の中でこのレポートを書いています。
ずっと張り詰めていた緊張が解けたせいなのか、珍しく風邪気味のようで少しのどが痛い。

ここに至るまでの長い道のり、そして参戦が決まってからは放たれた矢のように過ぎていく時間、そして奇しくも東日本大震災が起きてからちょうど3ヶ月目にあたる6月11日にスタートするルマン24時間の果てしなく長いドラマ…。

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5月23日・24日にフランスで行われるプライベートテストに参加する為、5月19日に僕は日本を出発。

今回のルマン24への参戦に至るまでには本当に沢山の出来事が起こった。

チームとの交渉を本格的にスタートさせたのは年が明けて間もない1月に入った頃。
幾つかのヨーロッパのチームとコンタクトをとって可能性を探ることから始めた。
今年ルマン24に参戦するチームをネットで検索、チームの連絡先を調べてまずはメールでご挨拶。
こんな地道な作業からルマンに向けた戦いがスタートするのだ。

全く反応のないチームもあるが、とにかくこちらからはドアをノックし続けるしかない。
海を越えてのチームとの交渉。
ファーストコンタクトで反応をくれたのは3つのフランスのチームだった。
ここから1000通にも及ぶメールのやり取りが始まる…。

顔の見えない相手との交渉。
海外のトップカテゴリーであるルマン24時間耐久レースに海外のチームから参戦することの難しさ。

これは僕がここ8年くらい続けてきて一番身にしみて感じていること。
でも答えはいつもシンプル。

「絶対に諦めないこと」

文字通り時差を越えて毎日数か月間に渡り続けられたチームとの交渉。
フランス人相手の交渉は予想以上にタフだ。
日本・フランスの時差の中、電話とメールが1日中飛び交う。
いったいどれだけの数のやり取りをしただろう…。
昼も夜もない日が何日続いたかわからない。
自分がどこにいるのかさえ分からなくなることもあった。

チームとの交渉と並行して、僕自身は日本において今回のルマン24参戦の為の支援者を募るべく奔走する毎日。
この戦いは一人での力では決して実現し得ない。
なかなか前に進まないチームとの交渉…苛立ちと焦りばかりが募る。

一方、どんな状況にあっても当然僕はスポーツ選手としての準備を怠ることはできない。
再びルマンの地に赴き、そこで戦う自分自身をイメージし、必ずサルテサーキットを走れると信じて続けてきた毎日のトレーニング。
いつ来るかわからないチャンスを待ちながら、忙しさに翻弄される中でこのきついトレーニングメニューをこなすのは言葉にする以上に過酷だった。

そんな矢先に起こった東日本大震災。3月11日。

今ここでこの出来事に関して何かを言葉にすることは難しい。

ただこの出来事が僕の心を大きく揺るがし、今までずっと自分の中で常識だと思ってきたその概念を大きく覆したのは事実。
レースへの参戦に向けて死に物狂いで活動を続けている真っ最中の出来事だった。

この日僕はルマンに向けてのミーティングを終えて車で移動中に大きな揺れを感じた。
その瞬間咄嗟に思い出したのは阪神大震災のこと…。
僕はこの阪神淡路大震災を大阪の実家で経験している。
この地震がどれほどの被害を東日本にもたらすのかこの時点では知る由もなかった。

そして連日テレビで流される被災地のニュース。
津波によってもたらされた東北地方の甚大な被害の映像を見るたびに、僕は今回のルマン24への参戦は難しいかもしれないと感じ始めていた。
現実問題として経済状況の悪化は大いに考えられ、日本がこのような難しい局面にある中で支援者を募る事は難しくなるだろう。
しかしそれ以上に未曾有の出来事を前に、自分自身が何をしなければならないのかが分からなくなった瞬間があったというのが本当のところだ。
そんな精神的にも最も厳しい時期に僕の背中を押してくれたのは誰あろう心ある支援者の方達だった。
ご多忙にも関わらずいつも時間を作り変わらず僕を応援し続けてくださっている皆さんが、こんな時だからこそ日本の代表として世界の舞台で全力を尽くして戦うべきではないのか、可能性がまだ少しでもあるなら是非前に進んでほしいと声をかけてくださったのだ。

チームとの交渉は最終段階を迎えていたが、まだ越えなければならないハードルは山済み。
チームには他にもドライバー候補が数名いて全く予断を許さない状況。
しかし、(そうか、簡単に諦めてはいけない。自分にこそ出来ることがあるはずだ…)そう思うと、この時点で僕の震災後に心の中に生まれた迷いは消えていきつつあった。

やると決めたら絶対に出来ると信じて動き続けるしかない。
出来る出来ないを考え、悩む時間は無駄。
やるかやらないかの実にシンプルな二択。
思考も行動も、決して止まってはならない。
この時点で僕が止まることは諦めることを意味する。

ここからはもう本当に死に物狂いだった。
午前中にトレーニングを済ませて、昼からはミーティング。
夜中は時差を越えてのチームとのやり取りの毎日。
毎日が本当にギリギリの綱渡りのよう。

そうして動き続けた結果、待ちに待ったチームからの連絡が届く。

「我々も信治と共に戦う事を前提で話を前に進めようと思う。」

遂に山が動いた!

この時もう日付はレース1か月前、5月に突入していた。
残された時間は僅か。
ここから僕は交渉をまとめる為の日本でのハードルを越えるために、更にハードに動き続ける必要があった。
本当にどれだけ沢山の方たちとお会いさせて頂いたか…。
そんな中チームからは日々プレッシャーのメールが送られてくる。

「いつまでに最終的な返事をする事が出来るんだ?」
「このままでは他のドライバー候補との話も同時に進めなければならない…。」

メールの内容も次第に厳しいものに。
こういう時のフランス人の畳み掛け方は容赦がない。
この頃の僕は2週間以上1日1、2時間の睡眠生活。
普段8時間睡眠で体調を整えているロングスリーパーの僕だけに結構きついものがある。
ソファーでうとうとしているとPCからメールが届いたとの合図でピロンと音が鳴る。
その度にチームからの連絡かと思い飛び起きる。
もう神経が過敏になっていて寝るに寝られない。
自分は大丈夫か?
自問自答しながら先の見えない道をとにかく走り続ける毎日…。

そして迎えた5月15日。
遂に日本での支援者の方々が僕のルマン24挑戦への最終的なサポートを決定して下さった。
間髪をおかずチームから契約書を送付してもらいサイン。
内容などの最後の詰めを行ってこの契約書を僕がチームに送り返したのは5月18日。

予定していた渡欧の前日のことだった。

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このルマン24参戦に向けて動いている中で、僕がどうしてもやりたい事、やらなければいけない事があった。

それは今回の東日本大震災の被災地を訪れること。

今回こうして沢山の支援者の方々のお陰で、僕は世界の舞台で日本の代表として戦えるチャンスを頂いた。

今年、このルマン24に参戦することが出来た日本人は、僕ただ一人。
この世界でも有数なスポーツイベントであるルマン24は、それだけ日本人にとってはハードルが高いレースなのだ。

たった一人の日本人としてルマンに参戦することになった僕に出来ること、しなければいけないことが必ずあるはず。
そう考えた僕は、被災地を自らの足で訪れ今の日本が置かれている状況を自分の目で見、耳で聞き、そして感じたことをフランスで伝えたいと思っていた。

そんな折に頂いたお話が、今回の津波で甚大な被害を受けた宮城県東松島市への医療ボランティア。
正直、医療従事者でもない僕に出来ることなど何もないかもしれないが、先生達とご一緒させて頂いて車の運転、荷物運びなどなんでもやる心づもりで現地に向かった。

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その際、僕が現地で目にした光景は一生僕の頭から離れることはないだろう。

そしてそこでお会いした被災者の方々から聞いた「ありがとう」の言葉も…。

参戦内定後に僕がまず始めにチームに対して行った交渉は、この日本で起きた未曾有の災害に対するメッセージをマシンとヘルメットに載せることを承認してほしいと言うことだった。

チームにとってはマシンの広告スペースは非常に重要で、ステッカーの場所によっては数千万円の収入になる可能性のある貴重なもの。
しかし今回僕の話を彼らは真摯に受け止めてくれ、快くその要望を受け入れてくれた。

僕が今回マシンに載せて走ったメッセージは「ありがとう ARIGATO FROM JAPAN」

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これを日本語とローマ字で書いている。
僕が被災地を訪れて一番心に残った言葉が、この「ありがとう」だった。

「ありがとう」の言葉の持つ尊い力。

僕はご自身が大変な状況にありながら、「こんな所まで来てくださってありがとうございます。」そう僕らに言ってくださった被災地の方々の心持ちをとても尊いものだと感じた。
もしかしたらこれが今の日本人が忘れかけている心であったり 精神性の最も芯にあたる部分なのではないかと。
そしてこの言葉はこの国の持つ尊い力を大いに表しているのではないかとも感じた。
それを僕自身が東北の方々と接する機会を頂いたことで強く感じることが出来たことをとても有難く思っている。

決勝レポート

その時、僕自身この「ありがとう」の言葉を聞いて、もっと何かやらなければならないという気持ちになったのも事実。

震災直後から日本は海外からも本当に沢山の支援を受けている。
ただ、様々な政治的な意向などもあるのか、こんな素晴らしく尊い言葉がそんな諸外国すべてに対して正しく伝えられていないのではないかとも感じていた。
日本からの「ありがとう」。
この言葉の意味を知った海外の人たちはどんな気持ちになるだろう?

そんな経緯があり今回ルマン24という毎年25万人以上の人たちが訪れる世界でも最大級のスポーツイベントにおいて「ありがとう」を載せて走ることができたらと考えた。

文を簡潔にまとめるのが苦手な上に、心に様々な思いが去来してしまい、前置きだけでこんなに長くなり恐縮です。

ここからはレーシングドライバー中野信治の話に戻ります。

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5月20日。フランスに到着。

5月末から6月にかかるフランスは素晴らしく美しい季節を迎えている。
僕にとっては3年ぶりのフランス、そしてルマン24時間耐久レース。
空港を出て空を見上げると、そこには3年前と変わらない雄大な空が青々と広がっていた。

翌日は軽く運動で汗を流して時差調整。
22日にチームと初の顔合わせ。
お互い少しぎこちないながらも握手を交わし、ここから共に戦う意識を高めていく。
この日はテストで使うシートを作り、その後ミーティング。
いつもながらチームとの初めてのミーティングはちょっと緊張するもの。
それでもこれまでのレースキャリアの中でフランスのチームとの仕事は初めてではないので、勝手はある程度分かっている。
初めて一緒に仕事をする人々を相手に、限られた時間の中でいかに迅速かつスムーズに事を進めていくか。
これにはこれまでの経験がものを言う。

長い空白から久しぶりにレーシングドライバー中野信治に戻る瞬間。
この緊張感が僕が僕であることを思い出させてくれる。

23日にはテストが行われるマニクールサーキットへメカニック達と移動。
移動の運転はあえて僕が担当。
3時間程のドライブだが時差調整にはちょうどいい。
何よりエンジニア達のために僕が運転することで彼らとの距離が一気に近くなる。
基本的なことだがドライバーが偉いのではなく彼らエンジニア達のお陰で最高の走りが出来ることを忘れてはいけない。

僕は彼らとレースまでに与えられた短い時間の中で最高の関係を築き上げていかなければならない。
ルマン24の本番までの限られた時間の中でどれだけいい人間関係、信頼関係を築いていけるか。
これはレースの結果にも大きな影響を与える。

勝負はもうここから始まっているのだ。
以前はF1フランスGPが開催されていたマニクールは、僕がF1にデビューした1997年に1年間住んでいた懐かしい場所。
サーキットとチームのファクトリー以外、牛しかいないような田舎町。
夜も8時を過ぎると何の灯りもない。
震災後節電のために日本の街中の灯りが減って暗いと言う方もいらっしゃるようですが…。
人間には慣れという素晴らしい能力があります。
この能力を良い方向に使うことが今の我々には重要なことなのかも。
昨今の日本は違った方向に慣らされて来ていたような気がします。

1997年、子供のころからの憧れであったF1にデビューしたあの頃は一人サーキットとホテルを移動するだけの毎日だった。
ただただ言いようのない孤独感と戦いながら、物音一つしない静けさの中で自分が一番になることだけを考え続けていた。
この時に僕が学んだのは時間に対する概念のようなもの・・・。

思えばマニクールでは牛だけが僕の話し相手だったな。(苦笑)
農業大国であるフランスの田舎にはそこら中に牛がいる。
今ではそんな牛達が可愛く見えて仕方ない。

あれから14年、本当にいい思い出だ。

2009年のアジアルマンシリーズ以来、今回のテストが僕にとっては1年半振りのレーシングカーのドライブ。
当然、今ある環境の中で出来る限りの準備はしてきたつもりだ。
もちろん不安がないわけではない。
ただ今回のテスト中、ミスは絶対に許されない。
今回チームが僕においている期待と信頼は大きい。
それはミーティング中の彼らの言動からビンビン伝わってくる。

体中の全神経を集中させマシンの動きを感じながら、頭の中でパズルを組み立てていく。
レーシングカーのセットアップは僕にとってはパズルのようなもの。
その組み合わせは数千通りにも及ぶ。
上手く組み立てていかないと絶対に最後は辻褄が合わなくなる。

長く世界のトップカテゴリーで戦い続けている僕の圧倒的なアドバンテージは、このパズルの組み立てが比較的上手いこと。
自画自賛ですが。(笑)

僕はマシンを走らせて短い時間の中で、その車の理想のセットアップが頭に数字と共に現れてくる。
初めてのチームを相手に仕事を進める際、僕のこのセットアップ能力は大きな武器となる。
これは僕が自分の持てる時間の全てをモータースポーツに捧げてきたことへのギフトなのかもしれない。

僕のマシンを走らせるセンサーが狂ってしまうと全てがだめになるが、久し振りのレーシングマシンの感覚を取り戻すのに半日を必要としなかった。
2日間のテストでチームメートのニコラと共に十分に走りこみ、問題点も把握。
僕の体の中に眠っていた様々なセンサーもまだちゃんと生きていてくれたようだ。

チームもテストの結果にはハッピーな様子。
これでまた一歩チームとの信頼関係が強固なものになる。

もちろんテストで疲れていてもルマンへの帰りの運転も僕が担当した。

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6月5日からはいよいよレースウィークの公式スケジュールのスタート。

日曜日にはルマン旧市街のジャコバン広場で毎年恒例の公開車検が行われた。

決勝レポート

この公開車検にも毎年本当に沢山の方たちが訪れる。

車検はルマンの旧市街にあるサンジュリアン大聖堂の前の特設会場で行われる。
車検なのに数万人の人たちが訪れてくれるのだ。
通常はサーキットで事務的に行われる車検が、このように町のイベントとして開催されるこのルマンというレース。
そしてそれを楽しみ、支えてくれる多くの人々。
今の日本では想像できない光景だが、これがモータースポーツの文化の形なのだろう。

月曜日にはいよいよチームでの全体ミーティング。

3年ぶりに帰ってきたルマン。
僕がどのような思いでこの地に帰ってきたかをここで説明するのにはまた多くの行数が必要になってしまうだろう。
2008年には奇跡のような出来事が重なり出場が実現した。
だがそれ以後ルマン24に参戦出来なかったこの2年間を僕は本当に沢山の葛藤の中で過ごしてきた。
今年こうして参戦が実現したのも奇跡に近いことなのかもしれない。
ただ奇跡はそれが必ず起きると信じ続けるものにのみ起こるものだと信じている。
セレンディピティ、その言葉の持つ少し抽象的な意味を毎年毎年僕はこの自分自身の体験によって確信に変えつつある。
今年もここまでくる過程でそんな偶然のような必然が本当に沢山起こった。
それら全ての出来事に今改めて感謝の気持ちを持ってこのルマンでの戦いに挑む。

そしてこの日チームメンバー全員が顔を揃えた。
前回のテストに参加できなかったもう一人のチームメート、チェコ人のヤンが合流。
日本的に表現すると彼はかなりのイケメン。
デビッド・ベッカム、いやジェンソン・バトン並だろうか?
彼はまだ25歳。
もう一人のチームメートはベルギーからきた20歳の好青年のニコラ。
年齢は僕の半分!

言うまでもなく今回僕は若い彼らをコントロールする役割もチームから望まれている。
どちらのドライバーも才能溢れる若手選手。
若いころ最年少記録を次々と塗り替えてきた僕も、気が付けば不惑に突入…。(笑)
若い彼らと走るのも今回の楽しみの一つだ。
僕にとって伸び盛りのドライバー達と一緒に走ることは今の僕自身の実力を知ることが出来る一つの重要な指標にもなる。
この日ヤンが合流したことで新しくシートも作って水曜の公式走行初日への準備は万端。

実はこのイケメンドライバー、ヤンくんは相当自由に育てられたらしく、シート作成の際もかなりのマイペース。
3人のドライバーの協調性が何よりも重視されるこのレース。
果たして大丈夫か?
実は彼のお父さんは億万長者とのこと、なるほど、ある意味納得だ。
でも話してみると全く嫌な男ではない。
きっと上手くやれるだろう。
そもそもドライバーという人種は個性溢れる人物ばかり。
こういった外国人のドライバー同士をうまくまとめあげるのも僕の手腕が試されるところだ。

火曜日にはサーキットでドライバーズミーティングが行われた。
今回のルマン24に参戦する全てのドライバー達が集合。
ここでは懐かしい顔とも結構再会するので面白い場でもある。
僕のF1時代のチームメートのオリビエ・パニスやアメリカCART・INDY時代のチームメートのエイドリアン・フェルナンデスも居たりしてまるで同窓会のよう!
フランス語に英語、そしてスペイン語が飛び交う。

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水曜日公式走行の初日は16時~20時、22時~24時までの2回のセッションで行われる。
他のチームは4月末にここルマンで公式走行を行っているため、僕らのチームより遥かにマシンが仕上がっているのは間違いない。
僕らのチームは予算と時間の関係でこのテストには参加出来なかった。
何しろ参戦が決定したのが5月も半ばを過ぎたところだったので…。
それだけギリギリでの参戦決定だった。
当然ハンデはあるもののそんなことは言っていられない。
とにかくやるしかない。
どこまでこの日の走行でマシンの方向性を決められるかが鍵になる。

まずは僕がマシンの状況を確認するために走行を開始。
チームが一番信頼しているドライバーがルマンの初日を走り始めるのが定説。
そういった意味では光栄なことだ。
こうして僕がマシンのベースセットを作り、残りのドライバーがそれに続く。

3年ぶりに走るルマン・サルテサーキット。

F1時代、モナコやスパフランコルシャンがそうであったようにこのコースはドライバーにとって特別なものだ。
いやもしかしたらそれ以上かもしれない。

320km/h以上のスピードで森の中をマシンが駆け抜けていくルマン。
特に夜の走行は真っ暗で何も見えないので本当にしびれる!
インディのオーバルトラックでの380km/hオーバーもスピード感はあったけれど、ルマンの夜の走行はもう少し特別なものかも…。

1回目のセッションの最後にもう一度僕がマシンに乗り込む。
時間もないので新品タイヤでマシンの状況を確認することに。
ここで自分でも驚くほどの好タイムを記録して4番手でセッションを終えることに!
僕がこのタイムを記録するまでに走ったラップ数は僅か10周。
チームメンバー達の顔にも笑みがこぼれる。
彼らの疲れはこの瞬間に吹き飛ぶのかもしれない。
アタックを終えた僕にチームのメカニック達が駆け寄り次々に言葉をかけてくれる。

皆心から嬉しそう。
彼らの片言の英語と僕の片言のフランス語で喜びを表現し合う。

少しでも相手の知っている言葉で話す努力をする、それはちょっとしたマナーでありまたお互いの距離を縮める為の最高の手段だ。
何とも微笑ましい不思議な光景。
これでまた一歩、いやこういう場合一気に5歩くらい一気に信頼関係が深くなり、彼らとの距離が近づく感じがする。

僕も自分自身に正直ほっとした。
まだやれるな。

夜のセッションは開始直後がハッピーアワーと言われるタイムアタックに最も適した時間帯。
日が落ち始めて気温が下がればエンジンパワーが上がる、同時に路面温度が下がればソフトタイヤを使うことが出来て大幅なタイムアップが見込めるからだ。

ルマン24は毎年夏至に一番近い日曜日に行われるため、日が長い。
それでも22:20くらいまでがぎりぎりヘッドライトに頼らずタイムアタックが出来る時間帯。
開始から20分が勝負だ!

僕はレースに備え早めにルマンに入っていたので、毎日徒歩でサーキットを歩いたり、日が暮れる時間帯に乗用車でサーキットの公道部分を走ったりしてどの時間帯でどれらいの暗さになるかをチェックしていた。

この夜の走行はアタックを行わず、まだルマンのサーキットを完全に把握出来ていないチームメートのニコラが担当することに。
このセッションでは夜の帳が下りて真っ暗になってからは僕が走行を担当。
気温が下がってからのマシンの動きやライトの角度などをチェック。
ブレーキングポイントなども昼間とは全く見える景色が違うので、夜の景色に目を慣らさなければならない。

決勝レポート

疲れてくる時間帯の夜の走行はミスを犯しやすい。
ルマンの魔物は夜に潜んでいるとよく言われる。
そんな状況の中 、初日はほぼスケジュール通りに作業を進めることが出来て終えられることに。
25時過ぎまでミーティングを行い、次の日のテスト内容などを話し合う。
この日ホテルに戻ったのは26時半だった。

木曜日。
いよいよ予選当日だ。
この日は19時~21時、22時~24時の2回の予選が行われる。

今年のルマンはあまり気温が上がらず少し肌寒いくらい。
でもこれはドライバーにとっては非常に戦いやすい気候。
真夏のコクピットの中は60℃を超えるのだ。
この日はレース用のギヤボックスに交換していた為、あまりラップをこなせない。
レースを一番いい状況で迎えるために新しい部品のマイレッジを少しでも抑えたいからだ。
ただ僕らドライバーにとってはただでさえ短い走行時間を削られるため厳しい状況であるのは間違いない。
僕は6周ほどラップを重ねるが、マシンの動きは少しイメージしていたものと違う。
マシンのセットアップが明らかに違う方向に行っているようだ…。
走行終了後、緊急ミーティングを行い、再びこの方向性を軌道修正する為にもう一度パズルを組み立てなおす。
このパズルの組み立ては通常エンジニアが担当。
レーシングマシンは基本数学で成り立っている。
数学の天才であるエンジニアがドライバーからマシンの状況を聞いて経験と計算とで弾き出した数字を実際のマシンに埋め込んでいくのだ。
僕は数学が苦手で数字を見るのも嫌いなのに、何故かこのパズルを感覚的に組み立てるのが好きというか得意分野になっている。
僕が感性と感覚とで弾き出す数字が、時に計算を超えるときがあると言うことだろうか。
エンジニアにも当然プライドがあるからなかなかお互いのパズルが上手く噛みあわないときもある。
これを夫婦に言いかえると、相性の良し悪しと言ったところ。
いい時があれば悪い時もある、そんな時に大切なのが信頼関係なのだろう。
お互いをリスペクトする気持ちを持つことはどんな関係にあっても最も重要なこと。
特に僕は海外との仕事の場合は、まずはとことん相手を信じてあげることから始める。

決勝レポート

ミーティングを重ねた結果マシンのセットをもう一度軌道修正する事が出来、最後の予選に挑むことに。

さて予選は誰が担当するのか。
予選まで残り1時間ちょっと。
ドライバーにも心の準備が必要だ。
結局、大方の意見にエンジニアの希望もあり最終的に僕が予選のアタックを担当する事に。
ここまでの走行を終えた時点で僕がチームメート達のタイムを大幅に上回っていた為この決定には全員が賛成してくれていた。

僕にとってはルマン初めての予選アタック。
予選スタートまで1時間弱。
頭の中で最高のラップを何度も何度もイメージする。
これを繰り返すことで自分頭の中にある不安を取り除いていく。
恐らくアタックのチャンスは1周もしくは2周のみ。
その間に遅い車に引っかかればそれでアタックは終了。運も必要だ。
ここフランスに来る前に参拝してきた東京大神宮で引いたおみくじは大吉だった。
今回の僕には運があるはず。
そんなこともふと頭に浮かぶ。

さらに他のマシンとの兼ね合いもあるためピットから出るタイミングも重要だ。
僕は予選開始直後にピットアウト、アタックに向かうことに。
直前にエンジニアから無線で直ぐにアタックに出るか、2分間待つかを聞かれ、僕は迷わずこのタイミングで出る事を伝える。
ウォ-ムアップを終えてタイムアタックを開始。

前に車は見えない。
頼むから現れないでくれと祈りながらアタックを続ける。
ルマン・サルテサーキットは13kmと長い。

1周をミスなく完璧にまとめるのは決して簡単ではない。
55台の自分以外のマシンと誰にも出会わず1周を走りきることもなかなか難しい。
ここまでは全てのコーナーで自分のイメージとほぼ同じように走ることが出来ている。

どうか最後まで…!

最終コーナーを抜けてコントロールラインを通り過ぎる。

3分43秒479
僕の参戦するLMP2クラス5番手のタイム。
3位のマシンとは僅かに0.3秒。
皆さん、普段の生活の中で0.3秒という時間を意識したことがありますか?

充足感と少しの悔しさが入り混じった予選になったが、僕のチームが事前テストに参加していない事を忘れてはいけない。
それを考えれば決して悪くない出来だ。
タイミングも完璧でミスもなし。
やっぱりあのおみくじは当たっていたのか?
そういえば2009年にアジアルマンで優勝した際にも事前にここを訪れて大吉を引いていた。
ここ一番の勝負の時、皆さんも行ってみては如何でしょうか?(笑)

今日の予選において今のマシンが持つポテンシャルはほぼ100%引き出せたと思う。
チームメンバーもアタックを終えた僕を大喜びで出迎えてくれる。

トップ2の2台は前回のテストに引き続きやはり圧倒的なスピード。
今年からこのクラスに参戦するニッサンエンジンの力もあるのかこの2チームは絶好調だ。
僕のチームが使うエンジンはJUDD-BMW、今回のニッサンエンジンの強さに対してはどうすることも出来ないが、少しでもマシンのポテンシャルを引き出すべくチームと共にレースに向けて頭を捻る。

僕はテスト時からずっとマシンのセットアップで気になっているところがあったのだが、このレースウィーク中にその部分を変更する予定でいた。
しかしそれが時間の問題で変更不可能になり、結果としてはその部分がもうワンランク上のマシンを作り上げるための妨げになっているのは明白だった。
少なくとも僕の頭の中では…。
このマシンに対する変更希望も僕の頭の中のパズルが弾き出したものだったが、チームはこの変更に少し二の足を踏んでいた。
ギリギリのタイトな作業時間の中、メカニックにエクストラの仕事をさせる事でレース前に彼らを疲れさせたくない。
それには僕も同感だ。
ただレースを終えた今、もう一度レースをスタートするならばエンジニアが喜んでこの変更を受け入れるのは間違いないだろう。

でも勝負の世界に「たら」「れば」はない。
レース界に限らず戦いの世界全般においてこれは同じ。

正しい答えをどれだけ早いスピードで見つけ出すことが出来るか。
これがチーム力であり組織力なのだ。

時間をかけてあれこれ試していれば、そのうち答えは見つかるかもしれない。
ただこのスポーツにおいて重要なのは、5回で答えを出せるか3回で答えを出せるかなのだ。
ことモータースポーツにおいて時間は極めて有限であり、時に瞬時の判断を要求される。
5回試せば大体どんなチームでも答えを見つけることが出来るだろう。
短い時間で答えを導き出すにはもちろん時にリスクも覚悟しなければならない。
どこで思い切れるかはそのエンジニアの性格によるところも大きいだろう。
ただ僕は5月に行われたマニクールのテスト後、既にこのマシンの変更に関する提案をチームに出していた。
これは5の試みを3の試みで答えを出すためだ。
今はチームの誰もがこの僕の提案の意味を理解してくれるだろう。
このルマンというレースは24時間。
どれだけリスクを減らせるかも戦略のうち。
長所は時として短所にもなり得る。
その逆もまたしかり。
この時点で決してどうしようもなく悪いマシンという訳ではなかったのも事実。
そう考えればチームの選択にも頷かざるを得ない。

ただ最終的にどこを見ているかは非常に重要だということだ。
常に1番を見据えていた僕としてはこのままのセットアップでは無理だと感じていた。
だから5月のマニクールでのテスト後のミーティングで直ぐに変更内容を具体的に提案した。
この時点ではほんの少しエンジニアと僕の見ている目線がずれていたようだ。
エンジニアは5月のマニクールテスト後のミーティングの後、もしかしたらこのままでもそこそこいけるのではと考えたのかもしれない。
結果、やはり同じ症状は消えずに残っていたにもかかわらず、レースウィーク中は時間がなくなり変更が出来なくなってしまった。

それはもう1ヶ月前に始まっているストーリー。
これもレースの奥深さだ。

公式予選最終日だったこの日、ホテルに戻ったのは再び夜中の3時。
明日はドライバーズパレードがルマンの旧市街で行われる予定だ。

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レースウィークに入ってからというもの空模様が常に危ぶまれているルマン。
天気予報ではこの日が最も雨の確率が高かった。
しかしドライバーズパレードが始まる直前になると、それまで降っていた大雨が奇跡的に上がってくれて最高のイベントに!
このパレードには子供から年配の方々まで老若男女を問わず、数万人もの人たちがルマン市の中心部に集まりパレードの沿道を埋め尽くす。

決勝レポート

おじいちゃんやおばあちゃん、そして子供達の笑顔がこの国にとってのモータースポーツが何たるかを教えてくれる。

この光景を一目でも日本の方達が見てくれたらと願うばかりだ。
そう思って今回僕はこのパレードの動画をHPにアップすることにした。
何かが変わるきっかけになることを願って。

街をあげての盛大なパレードを終えるともう夜の21時前。
明日はいよいよ決勝。
朝9時からウォームアップ走行が始まる。
6時半起きだから今日は早く寝なければ…。
そう思うもののなかなか寝付くことが出来ないまま、空が白んでいくのを眺めていた。

日曜日の朝。
ホテルの窓から外を見ると少ないながらも日差しがある。
とりあえず今のところ雨は降っていない。
軽く朝食を済ませていざサーキットへ。

いよいよこの日がきた。

6月11日の今日、この日はちょうど東日本大震災から3ヶ月目にあたる…。

サーキットに着いて一人黙祷を捧げる。

今回僕が日本の国旗と「ありがとう」を載せて走ることで現地フランスを始めとする各国のメディアも注目をしてくれていた。

日本の友人からは沢山のメッセージと「ありがとう」が書かれた横断幕を日本を発つ直前に頂いた。

決勝レポート

この横断幕は今回のルマンウィークのイベントの際には必ず登場してもらったが、レース関係者、メディア関係、そしてファンの方々から多くの注目を浴びていた。
「Bon courage!(頑張って!)」
見ず知らずの人たちからそんな声もかけてもらった。
僕が持っていた日の丸のステッカーをヘルメットに貼ってくれたドライバーもいた。
チームは僕に内緒で用意した「ARIGATO FROM JAPAN」のステッカーをピットやガレージの至る所に貼ってくれていた。
そんな光景に出会う度に、世界の目がまだ日本に向いていてくれることを実感し胸が熱くなった…。

今回僕がマシンに乗り込む前に必ず空を見上げて心の中でつぶやいていた言葉
「ありがとう」。
この場に僕を立たせてくれた全ての皆さんに対しての心からの「ありがとう」。

どこかに届いた・・・かな?

午後3時、今年79回目を迎えるルマン24時間耐久レースのスタートだ。

空は時折薄日が差し込むものの曇り空。
天気予報は雨だったり晴れだったり曇りだったりであまりあてにならない。
一度に3つの天気が書かれてあることもある適当なフランスの天気予報。
なので当然そんな時は当たる事もあるのだが。(笑)
それにしてもフランスの天気予報は毎日よく変わる。
山が少ない分遮るものがなくて雲の動きが早いからなのかな。

ルマンは1周が長いのでサーキットの半分が雨で半分が晴れなんてこともある。
雲の動きには要注意だ。

スタートドライバーはヤンが務めることに。
これは実は僕の希望。
チームは僕にスタートドライバーを任せたがったが、しばらくレースをしていない僕がスタートを担当するよりも現在シングルシーターでレースを毎週のように戦っているヤンのほうが適任だと考えたからだ。

そこで僕は2番目の担当になる。
大体何か起こるときは2番目だ。
そのため冷静に対応できるであろう僕が2番手を担当する事になったのだ。

ヤンのスタートは上手くいったようで順位を1つ上げ、4番手で1周目を終了。
トップの2台は別格のスピードで逃げるが、後続のマシンは似たり寄ったりのペース。
そしてレースが40分を経過した所で1回目のピットイン。
給油だけを行い再びレースに復帰。
ここで2番手のマシンがトラブルでピットに入ったため3番手に浮上。
その後もヤンは順調にラップを重ね1スティント40分を走りきりピットに戻る。
ここまではスケジュール通りだ。

そしてドライバーチェンジのタイミングで給油とタイヤ交換を行う。
給油とタイヤ交換は人数制限とレギュレーション(レース規則)上、同時には出来ないため、給油だけの時より余計に時間がかかる。
そのため時間のかかるドライバー交代は、時間をロスしない為に給油だけではなくタイヤ交換を必要とするタイミングで行うことになっている。
大体2~3スティント交換が目安だ。
ラップにして約11周、時間にして約42分が1スティントになる。
3スティントタイヤが持つようなら、途中給油の為のピットはあるが約2時間同じドライバーで走り続けることになる。

いよいよ僕の出番だ。
走り始めからマシンのバランスは今ひとつでペースを上げられない。
恐らくタイヤの内圧が高すぎるのだろう。
無線でエンジニアにマシンの症状を訴える。
エンジニアは理解しているようだ。
何とかこの1ステイントを走りきってタイヤを交換しようとの無線が入ってくる。
とにかくミスなくマシンをピットまで戻すことに集中してピットに戻りタイヤ交換。

ピットアウト後3周目くらいだったか今度は突然リヤから大きな衝撃が!
瞬間、マシンは大きくバランスを崩すが何とか修正して事なきを得る。
ルマン名物ユーノディエールのストレートでのことだ。
スピードは300km/hを超えていて一瞬冷や汗。

ミラーを見たら右のリヤタイヤがパンクしている…!

タイヤが完全にホイールから外れたり、外れたタイヤがボディワークを傷つけないよう細心の注意を払いながらゆっくりと慎重にピットを目指す。

どこかでマシンを止めたらそこで終わりだ。

何しろ13㎞のルマンはサルテサーキット。
ユーノディエールからピットまでの距離はまだまだ長い。
はやる気持ちを抑えながらミラーで後方を確認しつつマシンを走らせる。

ルマンはもともとマシンのスピード差がありコース幅が狭いので後ろから走ってきた車に追突されかねない。
コース幅は狭くブラインドコーナーも多いため、相手が出来る限り早くスロー走行をしている僕に気付くようラインをトレースする。

この1周が1時間に感じるほどの緊張感だ。

何とかピットに戻りタイヤを交換。
慎重にゆっくりと戻ったこともあってホイルナット等も傷つかずにいてくれたようだ。

決勝レポート

タイヤを交換してここからは2スティントを続けて走る予定。
この後は大きなトラブルもなく無難にこのスティントをこなし、もう一 人のチームメートニコラにドライバーチェンジ。
パンクで一時順位を落としてしまっていたが、この頃にはだいぶ挽回してクラス7位あたりを走行。

走行を終えてエンジニアにマシンの状態を伝えた後はもう一仕事。
というのは今回僕はルマン24の戦いをツイッターで随時報告するという試みにも挑戦していた。
ドライバー自身がレース中に24時間レースの実況報告をする、これはレース界でも初めての試みではないだろうか?
正直ドライバーとしてはレース中はレースだけに集中したい。
しかし今年のルマン24はテレビ放送もなく、僕が日本を出発する前もこちらに来てからも多くの方々からどうしたらレースの情報が日本で得られるのかと問い合わせをいただいていた。
そこで考えたのがツイッターだ。
僕自身はこういったSNSなどは本当に苦手でメールを書くのもやっとというアナログ人間…。
しかしこの日本のメディアの現状には正直落胆を覚えるとともに、何か出来ることはないかと考えた。
少しでもルマンというレースに興味を持ってくれる人が増えてくれることを願って…。

実際にツイッターを始めてみると、開設から2日という本当に短い時間にも関わらず、実に1300人を超える方々がフォローしてくださり、走っている僕自身も皆さんからの応援メッセージに勇気や元気をもらう結果となった。
試行錯誤の中で始めたツイッターだったが、メディアの新しい可能性を感じた出来事でもあった。

そしてホスピタリティに戻ってシャワーを浴び束の間の休憩。
チームのトレーナーにストレッチなどもお願いして次の走行に備える。
ドライバーによってはこの間に軽く食事を済ませる。
僕は軽くフルーツを食べて少しベッドに横になる。

まだスタートして4時間くらい。
まだゴールは20時間先だ。
ニコラの走行中には少しトラブルがあった模様。
おそらくパンクかサスペンション。
僕はホスピタリティで休んでいたので情報がない。
よほどの緊急事態であれば連絡は入るが、そうでない限りここは別世界だ。
一人の世界に没頭し、レースイメージを高める。
今はただ彼がミスなく無事に走ってくれているのを祈るだけ。

しばらく経つとニコラがピットに戻ったとの連絡、再びスタートドライバーのヤンにドライバー交代。
ニコラは途中トラブルがあったので結局4スティント走ったようだ。
彼は若いし体力もあって性格もいいしとても将来が楽しみなドライバーだ。

この頃順位は5、6番手あたりか。
ここまでドライバーはミスなく、いい周回を重ねている。
トラブルでラップを失っているのが悔やまれる。
トラブルフリーであれば確実に2、3番手を走っていることだろう。

でもこれがルマンなのだ。

ヤンがステアリングを握る頃には少しずつ日が傾き始める。
ヤンのこのスティントの最中にアウディが大事故を起こす。
この事故のためにセーフティカーが導入され約2時間近くヤンはセーフティカーのもとで走り続ける。

セーフティカーが解除されるタイミングでチームは急遽僕にドライバーを交代することに。
もう1ステイントヤンが担当予定だったが、セーフティカーが長かったので一度ここでドライバーを変えようとの事。

いよいよ夜の走行が始まる。
ルマンの夜の走行ほど緊張感のある時間帯は他にない。
一瞬のミスで全てが台無しになる。
夜のルマンは限りなく暗い。
よくこんなスピードで走り続けていると感心すらしてしまう。

決勝レポート

サーキットの脇ではこのルマンを観戦に来ている数十万のお客さん達が夜通しお酒を飲んだりしながら思い思いに楽しんでいる。
楽しむのはいいが花火をやっているお客さんがいてこの花火の煙のせいでコースが見えなかったりすることもある。
冗談のようですが本当の話。
そう、これもルマン。

この3スティントは大きなトラブルもなく順調に終えることが出来て、ドライバーを再びニコラに交代。
彼にとっては始めての夜のルマンでのレースだが、いい集中力で走行を続けていた。

僕が走行を終えたのが夜中の2時頃。
こんな時間にレースをしていいのかと思うほどの時間帯だ。
再びホスピタリティのドライバーズルームに戻りシャワーを浴びて一人でストレッチ。
これを忘れると体が固まってしまう。
次の走行は明け方になりそうだ。
仮眠をとりたいがアドレナリンが出ていてとてもじゃないけど眠れない。

当然僕が休んでいる間もレースは続く。

ニコラのドライブは途中まで順調だったようだが、別のマシンのアクシデントで再びセーフティカーが入った模様。
それでも3スティントを無事に走りきったようでヤンにドライバーを交代したとの報告が入る。
彼は大きなトラブルもなく順調に3スティント目に入っていたが、ここで突然トラブルが発生した模様…!

無線でギヤが入らないとの連絡が入る。
僕は次のドライブなので既にピットに戻って準備を始めていた。
どうやら緊急のピット作業を行うようだ。
このタイミングで僕にドライバーを交代するとのエンジニアからの指示。

しかしギヤの問題は解決していない。
どうやらセミオートマチックが使えないらしく、マニュアルのように上手く回転を合わせて走らせてほしいとのエンジニアから伝えられる。

(おいおい、いきなりそんな事出来るのか?)

問題が起きると必ず僕がドライブを担当することになる。(苦笑)
チームが僕に全幅の信頼を寄せてくれているのは嬉しいが、いきなりドライビングスタイルを全て変えなければならないのは簡単なことではない。

普段右手でお箸を持っている人が、いきなりギリギリの切迫した状況の中、左手でお箸を持って絶対に食べ物を落としたりしないでね、しかも早く綺麗に食べて!みたいな感じでしょうか。

またまた極めて責任重大な局面がやってきた。
こういう場面をどう切り抜けるかでドライバーの評価は大きく変わるのだ。
やるしかない!

自分自身の持っている知識と経験をフル活動させてマシンを走らせる。
序盤からのトラブルが尾を引きトップ3との差は開いてしまっているが、順位はそれでも4位まで挽回してきている。

しかしここで無理をしても順位は変わらないので、とにかくマシンの挙動に細心の注意を払いつつ、無事にマシンを次のドライバーであるニコラに託すだけ。

再び緊張感溢れる走行が続く。

決勝レポート

結局無事2スティントを終えた所でドライバーをニコラに交代。
ところが経験の少ないニコラはこのマニュアル仕様では運転が出来ないとの事!
直ぐにピットに戻ってくる。
チームはトラブルの原因を見つけて再びセミオートマが動くようにするしかなく、大慌てで考えられる全ての部品などをチェックする。

決勝レポート

なかなか問題が見つからずピットイン・アウトを繰り返していたが最終的に同じチームの別のマシンを担当するエンジニアのアドバイスでECUを交換したところ再び正常にギヤが動き出したようだ。

メカニックの顔に安堵の表情。
ただこのトラブルで失った時間は痛い。
しかしこんな時、誰かを責めることは自分を責めることに他ならない。
こんな時だからこそ我々はチームであり、一つであることを忘れてはならないのだ。

これもルマン。

マシンが正常に戻ってからのニコラは順調にラップを重ねる。
順位は4位。
後ろからは僅かな差で5位のマシンが迫っているが、普通にミスなく走り続けられれば抑えきる事が出来るだろう。
前のマシンが何らかのトラブルで止まってくれれば3位に上がる事も十分あり得る。

あと一歩で表彰台、そんな想いも頭をかすめる。

ルマンはあと4時間を残すのみとなったが、ここからが本当のルマン24のドラマの始まりだ。
まさか自分がそのドラマの当事者になるとはこの時は思いもしなかったが…。
ニコラは3スティントを無事に走りきるが、この頃からコース上では雨がぱらつき始める。
レースも終盤。
ここに来て嫌な雨だ。
路面は完全な雨でもなく、ドライでもない。
チームがタイヤの選択に頭を抱え、そしてドライバーが一番ミスを起こしやすい路面状況になってきた。
どうやら珍しく今日の天気予報はあながち外れていないようだ。
こんな時だけ当たらなくてもいいのに!

この雨で足をすくわれ、既に何人かのドライバー達が壁の餌食になりリタイヤに追い込まれている。
2009年にアジアンルマンで共にチームメートとして戦い優勝を飾った名門ペスカローロのクリストフ・タンソーもここでリタイヤに追い込まれた一人。
チームメートのクラッシュをモニターで見ながら頭を抱える彼の姿がテレビの画面に映し出されている。
アウディ、プジョーといったワークスチームを除いてのプライベートチームのトップを走り続けて善戦していた名門ペスカローロもルマンの魔物に魅入られてしまったようだ。

20時間以上を戦い続け、ここでリタイヤを喫することほど悔しいことはない。
ルマンがかくも過酷で厳しい戦いだといわれる所以がここにある。

計算上ではヤンが残りの3スティントを走りきれば彼のドライブで24時間のチェッカーを受けることになる。
チームに確認したところ、よほどのことがない限りはこのままでドライバーチェンジはせずにチェッカーになる予定とのこと。
その時僕はヤンの1スティントを見守って、そろそろ着替えでも始めようかと思っていた。

そう思っていた矢先に突然チームマネージャーのセバスチャンが走ってくる。
「信治!準備をしてくれ。」
「え…?!」

気分はレース終了を待つだけのリラックス状態になっていた僕の驚きを想像してほしい。

「ヤンがドライバーを交代してほしいと無線で言っている。あと1周しかないから急いでヘルメットを被ってくれ!」

そんな事いわれても心の準備が…。
レースという極限の戦いに向かうにはそれなりの気持ちの切り替えが当然必要だ。
それがいきなり臨戦態勢になってしまった!
しかも空からは嫌な雨粒が。

どうやらヤンはこの難しい路面状況下、マシンの状態も悪化している中での極度の緊張状態に耐えられなかったようだ。
ドライバー達が最も嫌う難しいコンディションのもと、少しのミスでコースオフでもしたら最後、チェッカーを受けられなくなる。
レースも23時間が迫り、残り1時間弱。
最後の最後になってこの難しく、そしてもっとも緊迫した重要な場面。
このプレッシャーの大きさは想像を絶する。

サッカーならワールドカップでの優勝争いのPK戦の際のラストの選手の心境だろうか。
ゴルフならあとワンパットで優勝が決められるかどうかの場面だろうか。

しかしレースではこの緊張感を1時間半に渡って持続し続けなければならない。
それにしてもこのイケメンドライバーは最後までやってくれる。(笑)

その我侭ぶりに少々呆れながらももう一 度集中力を高める。

決勝レポート

この時、今回の僕の魔法の言葉をもう一度呟いてみる…「ありがとう」。
大急ぎでヘルメットを被り空を見上げて大きく息を吐き出す。

あとは…やるだけだ。

案の定、路面は所々濡れていて滑りやすい。
前の周では大丈夫だったコーナーが次の周では濡れている。
空の明るさを見ながらバイザーにあたる水滴で雨が落ちて来ているかを確かめる。
体中の神経を研ぎ澄ませて確実にラップを重ね1スティントが終了。

ピットに戻り最後の給油を終えてピットアウト。
残りは40分と少し。
マシンに問題は特にない。
あとは僕がミスなくゴールまでマシンを運ぶだけ。
順位はこのままいけば4位がほぼ確定している。

長かった24時間がもうすぐ終わろうとしていた…。

そして残り3周に差しかかった時だ。
ここからルマン24最終章の幕が開くことになる。

最終コーナーを過ぎたところで突然マシンの後部から白煙が!!
その瞬間すかさずコントロールタワーにある時計を確認する。
残り時間は8分くらいか。

パンクか?!
マシンの何かが右後部で壊れたのは間違いない。

決勝レポート

(嘘だろ・・ここまで来て・・・。)

このルマン24はチェッカーを受けなければ完走扱いにならない。
23時間59分走っていても、最後にチェッカーフラッグを受けないとゴール(完走)とは認められないという実に厳しいルールがある。

もし僕がマシンを止めてしまったら、その瞬間僕らのルマン24時間は終わりを意味する。

再び僕はミラーでマシンの後部を確認しながら白煙が上がらないスピードまで速度を落とし何とか走行を続ける。
このスピードでいけば1周する頃には24時間が経過してトップのアウディはゴールを迎えることになるだろう。
この状態で今度は丸々1周することになる。
何が壊れたのかはこの時点で正確には分からない。
とにかく1周、この1周だけもってくれ…。

白煙が上がった瞬間、そしてそこから始まる長い長い13kmのサルテサーキットのワンラップ。
この間にどれだけ沢山のことが頭を駆け巡ったことか。

後から聞いた話ですが、この時の様子は全世界にテレビでも放送され、被災に見舞われた日本からたった一人でルマンに挑戦にきた中野信治のマシンが最後の最後の戦いをしていると実況をされていたそうです。

24時間より長いとさえ感じたこの最後のサルテサーキットのワンラップ。

どうか、どうかマシンをゴールまで運ばせてください…。

ピットからは無線で今どこのコーナーだと?と何度も何度も無線が入る。
このときのチームのパニック振りは想像に難くない。
僕のこの時の心拍数の早さも想像してほしい。

そしてついに最終コーナーが見えた。
もう大丈夫だろう。

最終コーナーを抜けると、ピットの上で歓喜を通り越え狂喜するメカニック達の顔が見えた。
スピードが遅いので余計に皆の喜ぶ顔がはっきりと…。

白煙を上げながら歩くようなスピードでのゴール。

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24時間の戦いの果てのこんなゴールを誰が予想しただろう。

こんなドラマをいったい誰が作っているのだろう。

最後の最後まで何が起こるかわからない。

人生も同じかもしれない。

そして最後に受けるチェッカーフラッグ!

共通して言えることはやはり諦めてはならないということなのかもしれない。

厳しい戦いを通して、その中で信じること、信じ続けること、そして尊く生きることの意味を知ることが大切なのだとも思う。

僕はこの僕の人生の半分以上をともに歩んできたモータースポーツにおいて、そんな人として当たり前な、でもとても大切なことを学ぶことが出来ていることに望外の幸せを感じている。
ルマン挑戦5年目にして、ついにようやく辿り着いたルマン24時間のフィニッシュライン。

時計は12日の午後3時を過ぎている。
まだ24時間しか経ってないんだ。
昨日のスタートが随分と前の出来事のような錯覚にとらわれる。

パレードラップに入る。
無線で僕はチームのメンバー達に一言。

「ありがとう」

チームからも「ありがとう 信治!よくマシンをゴールまで運んでくれた!!」との返答。

コースにはマーシャルが全員コース内に出てきて完走したドライバー達に手を振り、サムアップ。
そのマーシャルたちの隙間を縫って完走した全てのマシンがゆっくりと走り抜けていくパレードラップはルマンの名物だ。

僕もこの光景を何度も映像で見たことがある。
マーシャル達も24時間一緒に戦ってくれていた。
お互いがサムアップで合図を送る。
言葉はいらない。
ここでは全てが一つにならなければならないのだ。

24時間を戦い抜き完走した全てのマシン、そしてスタッフに大きな賛辞が送られるのがルマン24。

5回目の挑戦にしてやっとその瞬間を迎えることが出来た。
しかも突然のハプニングとは言え、ゴールドライバーまで務めることが出来てこれほど幸せなことはない。
パレードラップ中ちょうどインディアナポリスコーナーの辺りに差し掛かった時、ここにくるまでの事を思い出して涙が出そうになった。

でも涙を流すにはまだ早い。

そう自分に言い聞かせる。
まだクリアしなければならない最後の目標が待っていることを忘れてはいけない。

僕が案外涙もろいことを恐らく誰も知らないだろう。
多分それを知っているのは僕以上に涙もろい母くらいだ。
そしてそんな自分の弱さ?優しさ?を一番知っているのは誰あろう自分自身。
だからこそ僕はこの数十年間ずっと本当の自分を押し殺してこの戦いの舞台に立ち続けている。

もちろんまだ誰にも涙は見せていない。

でもそんなことを忘れてしまいそうになるほど嬉しかった。
いや極度に高め続けていた緊張が一気にほどけてしまったのかもしれない。

もしかしたら気づいている人もいるかもしれないが、普段僕は自分の感情を出来る限り表に出さないようにしている。
その理由が少しお分かり頂けたでしょうか?

信治の「信」は「信じるの信」であり、「信念の信」でもあります。
僕の会社の名前はCONVICTION、そう「信念」という意味でもあります。
僕の座右の銘は「信じれば叶う」。
時に僕の性格はつまらない人間に映ることもあるでしょう。
でもそれが決して強い人間ではない僕がこの世界で戦う自分のモチベーションを保ち続ける為の精一杯の信念であり僕のスタイルなのです。

そんな僕がヘルメットをとって思いっきり感情を表に出すときはもう少し先にとっておくことにしよう。
あと少しでその瞬間が訪れる事を信じて…。

今回の僕のルマン24参戦にあたっては、本当に沢山の方たちのご協力を頂きました。
このようなご時世に暖かい心で僕の世界への挑戦にご理解を頂き共に戦ってくださった方々に心から感謝いたします。

最後に改めまして今回の東日本大震災で犠牲になられた方々に哀悼の意を表すと共に、被災地の一日も早い復興と被災者の方々に少しでも早く心の平穏が戻ることを心から願うばかりです。
未だ復興の途中にある東日本の地域の皆さんに僕はまだ何もすることが出来ていませんが、今後も変わらずこの状況を意識し続け、動き続けなければならないと思っています。

今回のルマンの戦いの中で多くのトラブルに見舞われながら、そして最後の最後に訪れた最大級のアクシデントを乗り越えて奇跡のような完走を果たせたこと。
そこには目に見えない何か大きな力が後押ししてくれていたように感じます。
僕をここまで導いてくれたすべての方に、すべてのものに心からのありがとう…を。

僕自身またここからは来季に向けての準備も始まりますが、高いモチベーションを保ちつつ、更に強くなった自分で、あのルマン・サルテサーキットに戻るべく精進する所存です。

深謝。

パリー東京機上にて

中野信治

決勝

<総合>
Po. No. Cl. Team Car Driver Laps
1 2 LM P1 Audi Sport Team Joest Audi R18 TDI Fassler / Lotterer / Treluyer 355
2 9 LM P1 Team Peugeot Total Peugeot 908 Lamy / Bourdais / Pagenaud 355
3 8 LM P1 Peugeot Sport Total Peugeot 908 Montagny / Sarrazin / Minassian 353
14 49 LM P2 Oak Racing Oak Pescarolo-BMW Nakano / N. De Crem / J. Charouz 313
<LM P2>
Po. No. Team Car Driver Laps
1 41 Greaves Motorsport Zytek Nissan Ojjeh / Lombard / Kimber-Smith 326
2 26 Signatech Nissan Oreca 03-Nissan Mailleux / Ordoñez / Ayari 320
3 33 Level 5 Motorsports Lola Coupe-Honda Performance Development Tucker / Bouchut / Barbosa 319
5 49 Oak Racing Oak Pescarolo-BMW Nakano / N. De Crem / J. Charouz 313

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