18.
Apr.
2014
マニクールから車を走らせること6時間くらい。
最高気温が10℃に満たなかったマニクールから一転、車の窓を開けると南仏の暖かい風が優しく頬を撫でる。
ポール・リカールサーキットはその昔何度か訪れたことがある。
初めてここを訪れたのは僕が18歳の時。
F1の前座レースを戦っていた頃に当時F1のフランスGPが開催されていたこのサーキットでのテスト走行で訪れたのだ。
その後しばらく時間が空くことになるのだが、再びここを訪れたのは'05年だった。
ここ数年挑戦を続けているルマン24とのご縁が出来るきっかけとなった場所でもある。
当時僕は世界3大レースの一つに数えられているルマン24へ参戦するために色々な方達にコンタクトを取り、その可能性を模索していた。
その時にたまたまご縁を頂いたのが当時ルマン24に参戦していたフランスの老舗チームであるクラージュ・コンペティションだ。
このチームをサポートしていた横浜ゴムさんからポール・リカールでクラージュがテスト走行を行うことを聞いて、早速テストに参加出来るよう話を進めてみた。
テストまで全くといって良いほど時間がなかったので直ぐに飛行機とレンタカーを予約して慌しくフランスに飛び立ったのを覚えている。
このテストでの結果がこの年のルマン24参戦への決め手となったのは言うまでもない。
僕にとって長時間を戦う耐久レースは全くの未知の世界だったのだが、何か目標が決まればまずは行動を起こすのみである。
思考と行動の一致こそが物事を現実に変えていくものだ。
なぜかこういう時の僕は勝負強い。
'97年のプロストGPへの参戦を事実上決めたのは、'96年の鈴鹿F1GP後に行われた鈴鹿でのテスト走行だった。
初めてのリジェのF1マシンのドライブで最後の最後に僕が叩き出したラップタイムは、この年日本GPでリジェの記録した予選タイムに匹敵するものであったのだ。
このテストで結果が出せていなければ'97年の僕のF1GPへの参戦は叶わなかったであろう。
テスト前から僕は何となくそう告げられていたのだ。
恐らくこの事実を知る人は少ないだろう。
このテストの内容を高く評価してくれたのは当時リジェのチーム監督であった名将チェザーレ・フィオーリオだった。
その後チームが買収され体制が一新されたのは僕にとって予想外の出来事だったのだが…。
'99年のデイモン・ヒルがイギリスGPに参加するかどうかでもめていたその時、当時リザーブ兼テストドライバーであった僕にまさかのレース参戦へのチャンスが巡ってきた。
GP前に行われたテストでは僕とヨス・フェルスタッペンがイギリスGPのドライバー候補としてジョーダンGPのマシンをドライブしていたのだ。
当然このテストでリードした方にチャンスが巡ってくることになっていた。
この真っ向勝負で僕は僅かではあったがヨスを上回ることが出来たのだ。
一筋の光が見えた。
この年のジョーダンGPは快進撃を続けていた。
初めて僕がこのマシンを走らせた時には正直唖然とした。
何て乗りやすいマシンなんだ…。
'98年に僕が走らせていたミナルディとの比較をすることは好ましくないが、あまりにも全てが違いすぎた。
今このマシンでレースを戦えればと何度思ったことか…。
結局はデイモン・ヒルがイギリスGPへの参戦を決めて僕の夢は見事に打ち砕かれた。
僕にとっての唯一のF1で悔いがあるとしたら、この年このマシンでレースを戦えなかったことだけだ。
'04年には日本のGT選手権参戦のためのテストをヤン・マグネッセンと共に争うことになった。
もちろんこの時もテストの結果で全てが決まることになっていた。
ヤンは今はときめくマクラーレンの新星ケビン・マグネッセンのお父さんだ。
ヤンとはF1でも一緒に戦っていたことがある。
巡り巡ってなんとも懐かしい再会だがまた強力なライバルだ。
彼はここ数年ずっと箱のマシンでルマンを初めとするレースを戦っている。
それに引き換え僕はまともに箱の車に乗ったことがないのだ…。
そんな絶体絶命のピンチではあったが、このテストでも最後の勝負で僅かながら僕がヤンを上回ることになった。
正直これには自分でも驚いた。(笑)
残念ながらこの年のホンダNSXがGT史上稀に見る絶不調でホンダ勢は大いに苦しむことになった。
よりによってこのタイミングじゃなくても…。(苦笑)
それでもホンダ勢の中では年間ポイントは2番手を獲得していたと思う。
もちろん自分自身の走りも含めて決して納得出来るものではなかったのは事実だが苦手な箱車で頑張った方だろう。
今ならもう少し上手く走らせることが出来るかもしれないな。
その後ルマンに参戦するきっかけとなったポール・リカールでのテストでも同じようにライバルを上回ることが出来たのだ。
なぜかこうした重要なタイミングで必ずといっていいほど相手を上回ってきた。
それがこうして何とか僕がレースを続けられている理由の一つだろう。
流石に最近は若くて能力の高いドライバーがどんどん出てきているのでそうは勝たせては貰えないが…。
それでも僕は若い彼らと互角に戦うべく、彼らから少しでも多くのことを学ぶべく戦っている。
特に自分自身でも驚いているのがここ数年は年に1、2回しかレーシングマシンをドライブしていないにもかかわらず、一番とまでは言わないがそれなりのスピードを見せ続けることが出来ている。
その少ないレース数の中で岡山のアジアルマンと富士のWECでも優勝しているのだ。
あとはルマン24での結果だけか。
ここまでくると自慢話だな…。
長々と失礼。
ここポール・リカールは最近ではテストコースとしても有名になっており、サーキットの設備は素晴らしく綺麗だ。
今回はこのサーキットで今年WECに参加する殆どのチームが集い、テスト走行兼お披露目が行われるイベントでもある。
今年戦うことになる他チームのマシンとの比較が直接出来る開幕戦前の最初で最後のテストなので、どのチームもデータを集めるために色々な作業を行うことになる。
今回はレースエンジンをこのテスト走行でも使わなければならないと言う新しいレギュレーションのため、周回を行うラップ数に限りがある。
なのでその決められたラップ数の中でマシンの状況をきちんと掴まなければならない。
作業は予定通りに進められた。
午前中はチームメートのジョン・マーティンが走らせる22号車が走行。
部品を共有している関係で同じタイミングでは走らせられないのだ。
この午前でジョンがトップタイムを叩き出す。
彼は長らくこのクラスで戦っているが、恐らく最も速いドライバーの一人だろう。
午後からは予定通り23号車を僕がドライブ。
順調にテストプログラムをこなし、強力なライバル達を退けこの日最速タイムを叩き出しテストを終えることが出来た。
これは何よりも車のバランスがいい証拠だ。
チームにとっても午前・午後と同じチームの異なったドライバーで最速タイムを記録する事が出来たのは大きい。
この時期はチームとの関係を作るうえでも非常に重要なタイミングだ。
これで僕もチームとの距離もぐっと縮めることが出来ただろう。
このスポーツはチームスポーツだ。
ドライバーは一人では戦えない。
彼らチームメンバー全員を信頼し、また彼らから僕への信頼を勝ち取ることが素晴らしい結果へと繋がる唯一の手段になる。
翌日サーキットでのオートグラフセッションを終えて慌しくマルセイユの空港へ向かう。
ヒースローへ向かう飛行機にも間に合ったのでほっと一息。
次に僕がステアリングを握るのは開幕戦が行われるシルバーストーンだ。
中野信治