今年で僕がレースを始めてから33年目になる。
改めて随分と長くの間この仕事を続けさせて頂いているなと思う。
レーシングドライバーであった父の応援により11歳でカートレースを始め、世界チャンピオンになったのは高校2年生16歳の時だった。
その後、本田博俊さんをはじめ多くの方たちとのご縁を頂き、当時のF3、F3000、F1を日本人最年少の年齢でデビューしてきた僕も、来年には45歳を迎える。
四捨五入をすればもう50歳だ。
何か自分では信じられない気分なのだが、それだけの長い年月を自らの夢のために走り続けてこられたことに大きな幸せを感じざるを得ない。
これはやはりこれまで、そして今現在も共に戦いお力添えを頂いている信じられない程の沢山の仲間達のお陰だ。
ここ数年は年にほんの1、2回しかレースを戦う機会がなかったりもする。
もちろん状況が許せばもっとマシンに乗っていたいし、世界での戦いの舞台に立ちたいと思っている。
もうすぐ初老を迎える年齢になった今でも、そんな戦いへの情熱は少しも衰えていない。
それどころかレースに参戦する回数が減った分、想いだけは更に大きくなっているとさえ感じることすらある。
それだけに紆余曲折を経てシートを獲得し、久しぶりのサーキットを訪れる時の気持ちは、レースを始めたあの頃と一寸たりとも変わることがない。
毎年のように国籍の違う新しいチーム、初めて会うことになるチームメートやチームメンバーとレースが開催されるサーキットにて初めて握手を交わす。
これで新鮮な気持ちにならない訳がない・・・。
おまけにレーシングマシンを操る事が出来るのも年に1回か2回な訳だから、久しぶりにマシンを走らせるその瞬間までの緊張感は半端なものではない。
自分はこれまでのようにちゃんとマシンを走らせることが出来るのだろうか?
少しではあるが、ふとそんな思いが頭をよぎることがある。
当然のことなのだが、ただ走るだけではなく、速く走らせられなければ意味がないのだ。
ルマン24を戦う際のチームメートになるドライバーは、大抵の場合1年を通してシリーズでマシンを走らせている現役バリバリの精鋭のドライバー達だ。
そんなドライバー達を相手に、遜色ない走りを見せなければならない。
それをずっとマシンを走らせていない僕が実践しなければならないのだ。
実際これは簡単なことではない。
だがそれが出来なければ、あっという間にチームからの信頼を失うことになるだろう。
僕は長い海外生活とレースキャリアでの経験から、欧米のチームでの戦い方をある程度熟知しているつもりだ。
自らにとってチームメートとなるドライバーは一番近い場所にいる仲間であり最大のライバル、そして自分自身の実力の指標となる選手でもある。
手前味噌ではあるがルマン24参戦を開始した2005年以降、そんな数々の強力なチームメート達を相手に、全く引けを取らない走りで戦うことが出来ている。
これには正直自分でも驚いているくらいなのだが。
チームとの交渉からスポンサー交渉、契約書や企画書作成までの全ての作業を自ら行っている僕にとっては、マシンに乗る前にシートを獲得するという越えなければならない大きな壁が待っている。
昨今の経済状況に加え、加速する円安と異常ともいえるここ数年のルマン人気により、シート争いは益々激しさを増している。
一見すると僕が毎年華やかな世界を舞台に戦い続けているようなイメージを持たれる人も多いかもしれないが、その裏ではサーキットとはまったく異なる戦いが、静かに、しかし熾烈に繰り広げられている。
そうした中で最終的にレース参戦を実現出来ていることが僕にとって何を意味しているか、それを理解して頂くにはもう少し説明が必要かもしれない。
たとえば参戦するレースはたった1レースであっても、僕はその準備のために少なくとも3ヶ月から半年の時間をかけている。
場合によってその布石は1年前のレースでヨーロッパに行った際にあちこちに撒いていたものであったりもする。
基本的にチームとの交渉は1通のメールのやり取りからスタートする。
そこから膨大な時間とメールのやり取りなどを通して、顔も合わせたことがない異国にいる相手の信頼を勝ち取っていくのだ。
もちろん上手くいくときばかりではない。
交渉は大抵の場合複数のチームと同時進行で行うのだが、もうこれが毎回信じられないくらいに色々なことが起こる。
ヨーロッパの人間との交渉は実にタフで骨が折れる。
彼らは実に巧みに交渉を進めてくるからだ。
こうした戦い方を知らない日本人なら、あっという間に相手のペースに飲み込まれてしまうだろう。
あまり得意ではない毎日の交渉事に神経をすり減らせ、ジェットコースターのような毎日を過ごしながらも、僕は自身がサーキットでマシンを走らせているイメージだけは決して頭の中から消さないよう努力している。
人間は自分が思っている以上に意志の弱い生き物だ。
ちょっとした想いや願望などは、何か少しネガティブなことが起こるとあっという間に掻き消されてしまう。
僕も決して強いと言われる類の人間ではない。
それでも僕はそんな自分をきちんと理解しようと今までずっと努めてきた。
そう、何よりも大切なのは己を知ることなのだ。
これは昨日今日に始めたわけではない。
日々のフィジカルトレーニングと同様に、それこそもう25年以上続けている僕にとっての習慣のようなものになっている。
交渉の時期は欧米との時差の関係で、一日の睡眠時間は良くて3時間程度しかない。
ここ数年の僕自身はやはりこれだけをやっているわけではないので、自然時間との戦いは過酷で、最後には色々なことが詰んでくるのだ。
もちろんもう20年以上続けている週に3日のジムでのトレーニングに週2回のジョギングも欠かすことは出来ない。
これは僕の日々のルーティーンになっていて、今ではここまでやっているのだから、やれないことなどないという自らの目標達成の為のトリガーにもなっている。
お陰で体型は20代前半から全くといって良いほど変わっていないし、当然だが食事もずっとコントロールしている。
年に1、2回のレースのためにそこまでやる必要はないのかもしれないのだが、僕は逆にだからこそ続けなければならないことなのだと自らに言い聞かせるようにしている。
さて、ようやくだが(笑)少しずつ本題のレースの方に話を戻していきたい。
今回の参戦が実現するまでもやはり交渉の段階ではかなりの紆余曲折があった。
本来はWEC世界耐久選手権での参戦を視野に入れて複数のチームと話していたのだが、昨今のルマン人気の影響でWECの参戦ドライバーに動き事がなく、結局最後までシートが空くことはなかった。
こればかりは僕の力ではどうすることも出来ない。
そんな中で生まれてきたのがルマン傘下のアジアンルマン参戦の話だったのだ。
今回走れなければ今年僕がレーシングマシンをドライブするチャンスはもう訪れないかもしれない。
来年のルマン24参戦へ向けたストラテジーを考えた時、これは全てのチャンスに蓋をしてしまうことを意味する。
ヨーロッパでは中野信治という名前を忘れ去られてしまうかもしれず、そうなれば来年のルマン24参戦に向けての交渉の土台に上がることすら出来なくなってしまうだろう。
幸運にも今回のアジアンルマンはWECとの併催である。
そこに居続けなければ決してチャンスは巡ってこない。
世界の舞台で戦うには、待っていては何も始まらないことを自らの意思と行動によってレースへの参戦を実現せてきたここ10数年の間に嫌というほど学んできた。
例えクラスがLMP2であれGTであれ、WECメンバーも含めた世界のレース関係者の前で僕がマシンを操ることには大きな意味があるということだ。
何より一年を通して一度もレースを出来ないことに対して、ドライバーとしての僕の気持ちが耐えられない。
このような状況下で変わらぬモチベーションを保ち続けるのは皆さんの想像以上に難しい。
それを僕は自らのスタイルと信念でもって何とか今まで保ち続けることが出来ている。
努力という言葉はあまり好きではないが、僕のスタイルの中で自らがやれると思われることは全てやり尽くしている。
僕のような変わり者は遠回りをすることも多いかもしれないのだが、それもまた人生だ。
「人生」という名のレースの勝敗はそれを終えるその瞬間まで誰にも分からない。
独立独歩、独立自尊。人のことより自分のスタイルを貫くことだと思っている。
これは誰にでも言えることだと思うのだが、今その瞬間の結果だけで決して物事の優劣、勝ち負けは決められない。
僕は他人に対してもそうなのだが、同じく評価の基準を自分自身に対してもそのように考えるように心がけている。
物事には必ず過程というものが存在する。
逃げている訳ではない、言い訳をするつもりもない、ただ人にはやはりやれることとやれないことが必ずあるのである。
大切なのは自らを知ること、そしてそこから本当の意味での戦いが始まり、また学びがあるものだ。
もちろん何事も本気でやり続けることは、口で言うほど生易しいことではない。
兎にも角にも物語は続いていく。例え夢の形が変わってもいい。
前を向いてそれまで以上の素晴らしい物語を自らの創造力と努力で作り上げれば良いだけのことだ。
絶対に未来は前からしかやって来ないのだから。
そしてレースまですでに2週間を切ったところでついにチームとの交渉がまとまり、契約書へのサインにこぎつける事が出来たのだが、今回もお力添えを頂いた沢山の仲間達の存在なくしてここまで辿り着くことは出来なかった。
素晴らしい仲間達に支えられこうして世界での挑戦を続けることが出来ている僕は、本当に幸せな人間だと思う。
必要最小限の限られた条件の中で最高の結果を残すことが今の僕に与えられたタスク。
次は僕の番だ。
こうして僕はレースウィークの水曜日、2年振りとなる富士スピードウェイに帰って来ることが出来た。
まずはチームとの顔合わせだ。
サーキットに到着すると真っ先にチームのいるピットに顔を出す。
今回アジアンルマンはWECのサポートレースという位置づけなのでピットは特設テントの中だった。
僕のレース人生の中でサポートレースへの参戦というのは殆ど経験がないので、流石にこれには驚いた。(苦笑)
まあそんな環境も三日もあれば慣れてしまうだろう。
チームのメカニック達との挨拶を済ませ、早速今回の相棒となるマシンと対面する。
シート合わせは明日木曜日の予定なのだが、ペダルやスイッチ類を確認するべくマシンのコクピットに収まってみる。
何故だろう、他にこれほど心が落ち着ける場所があるのだろうか?
未だそんな風に感じられることが素直に嬉しい。
木曜日には今回ずっと交渉を続けてきたチームレースパフォーマンスオーナーのミシェルとチームメートのニコラスが登場。
二人とも今回が初対面だが、ミシェルとはずっと交渉を続けてきた相手なので初対面な気がしない。
「やっと会えたね」、そんな言葉を交わしながら、少しずつ自分の気持ちがレースモードに切り替わっていくのが分かる。
チームメートのニコラスはジェントルマンドライバーではあるが、レース暦30年以上の大ベテラン。
LMP2クラスでルマン24にも参戦しており、今年も既にこのマシンでテスト走行を行っているとの事だった。
どんな走りをみせてくれるのかが楽しみだ。
エンジニアのポールはチームデルタADRで2013年に僕のエンジニアを担当していたこともある顔見知り。
海外でレースキャリアを積んでいると、このようにレース界のネットワークが着実に広がる。
そんなこともあり彼のマシンセットアップに対するフィロソフィーは僕自身が大体理解出来ているので仕事はやり易いだろう。
今回のマシンのセットアップに対する考えを理解するべく、早速ポールとのミーティングだ。
大抵の場合マシンのセットアップは僕が担当する。
長年この世界でやってきた僕にとってマシンセットアップはかなりの得意分野でもある。
セットアップはパズルを組み立てていく作業と少し似ている。
パズルをいかに短い時間の中で正確に組みたてられるかが勝敗を左右する。
今回のように短い時間内に物事を進めていかなければならない場合は、更にその重要度が増すことになる。
僕は昨年のルマン24以来使っていなかったレース脳の回路を再び繋げるべく、徹底的にエンジニアと話し合い、少し鈍ってしまっている脳をフル回転させてみる。
ちょっと知恵熱が出てしまいそうだ・・・。
チームメートとの距離を縮めるべく、トラックウォークにも誘ってみる。
実際にコースを自分の足で歩き、コースのアンジュレーションやバンプのある場所などを細かく確認するのだ。
初めて富士を走るニコラスにコースの特徴も伝える。
小一時間程のトラックウォークの間に彼とは色々な話が出来た。
何となく気が合うなと感じる。この「何となく」は重要だ。
この時サーキットから見えた化粧前の富士山が美しかった。
2012年にWECで勝った時もトラックウォークの時に同じような美しい富士山を見た覚えがある。
何かいいことがありそうな予感がする。
午後7時前になりようやく今回レースで使用するシート作成に入るのだが、これが結構な時間と手間がかかるので大変な作業だ。
これがメカニックとの初めての共同作業にもなるので、今回共に戦う彼らとのコミュニケーションを図る上では貴重な時間であり、僕はこの時間をことのほか大切にしている。
2時間程の時間をかけてようやくシートが完成した時には、夜の9時を回っていた。