急遽決定した今回の「WEC第7戦 富士6時間耐久レース」への参戦。
共に戦うことになったのは、イギリスの「マノーレーシングチーム」。
もともとはF1のマルシャマノーに在籍していた主要メンバーが、独立して新しくルマン24及びWECへの参戦を目的として設立された強豪チームだ。
このチームとは今年のルマン24参戦に向けても交渉を続けていたのだが、その時は話をまとめることが出来なかった。
今回チームから連絡があったのは、すでに富士のレースまで残り3週間を切っているぎりぎりのタイミングだった。そこからレースウィークまでの道のりが遠かった…。
誤解を恐れず書かせて頂けば、今の僕にとってはレース参戦にたどり着くまでの戦いの方が長く厳しい戦いだったりもする。
レースウィークに入ればそこからの時間経過は信じられないくらいの早さになる。
これはちょうど料理人が手間暇かけて最高の料理を調理しても、それを食する時間はほんの短い時間だったりするのだが、少しそれに似ているところがあるのかもしれない。
しかし、最高の料理はそれを食する人すべてを幸せにしてくれるものだ。
チームがルマン24以降久しぶりにコンタクトしてきてくれたのは嬉しい驚きだったのだが、参戦を実現するまでには契約内容の交渉から契約書の作成。スポンサー交渉、マシン・ヘルメットのステッカー作成にレーシングスーツの手配に至るまで、信じられないほど多くの作業が待っている。
チームとの交渉は連日深夜にまで及び、寝床につけるのはいつも夜中の3時、4時が普通のことだ。朝起きてメールのチェックに始まり、送られてきている契約書のドラフトに目を通し、また修正を繰り返す。
そして予定の隙間を見つけて時間を作りジムでのトレーニングだ。週に3回のジムでのトレーニングは、もう数十年続けていて僕のルーティーンになっている。25年以上こうして体型が変わらないのもやはりこのルーティーンのお蔭だろう。実のところ僕は太りやすい体質でもある。継続はやはり力だ。
年に数回しか本番のマシンに乗れない僕にとっては、カートでのトレーニングも重要な時間。この時期の僕は当然のように睡眠時間が削られて、自由な時間など全くと言っていいほどなくなってくる。それでもこうしてレースの本番に向けて物事を前に進めていく過程で過ごす濃密な時間を苦だと思ったことは一度もない。
僕は元来のんびりした性格なので時間に追われるのは苦手な性分なのだが、不思議なことにこれは本当のことなのだ。
恐らくはこの挑戦こそが、今の僕にとって何よりも心からやりたいと思えることだからなのだろう。
大切なのは、その先にあるものが本当に心の底から実現したいと思える目標や夢なのかどうかと言うことだ。僕はこうしてレースを始めた11歳の頃と変わらず心の底から手に入れたいと思える夢を持ち続けられていることを、心底幸せなことだと思っている。
今から34年前、僕をこの世界へと誘ってくれた父、そして共に戦い続けてくれている沢山の仲間達には感謝の気持ちしかない。
修正に修正を重ねた契約書にサインをすることが出来たのは、レースウィークの月曜日だった。
時間との闘いはサーキット場だけではない。僕のような少し特殊とも言えるスタイルでの戦い方をしていると、ありとあらゆる場面で時間との戦いがあるのだが、2005年に初めてルマン24時間耐久レースを戦って以来、自分自身の中で時間の概念そのものに少し変化が生じたのも事実だ。
時間はあると思えばあるし、ないと思えば本当になくなってきてしまう不思議な概念だ。
僕はルマン24時間を戦い、24時間という時間はその過ごし方、そして感じ方で全く違ったものに変化するということを学んだ。
時間は有限ではあるが、自らの意識の持ち方一つで長くも短くもなったりする。
どんなに不可能に思えることも、ちょっとした意識の持ち方の変化で不可能を可能に変化させることが出来るのかもしれない。
参戦のための全ての作業を終えたのは、すでにレースウィークに入った火曜日だった。
この日の午後にはようやく週末のレースへ向けての荷作りを開始することが出来た。
ここからは、レーシングドライバー中野信治に戻り、頭の中を完全にドライバーモードに切り替えていく作業に集中する。
過去の富士での走行データやセットアップデータを復習して、何となくイメージを作り上げていく。乗っていない期間の遅れを取り戻すための作業が、ここからスタートするのだ。
僕はレーシングドライバーとしての長きに渡る経験から、物事を短時間で組み立てていくためのちょっとしたテクニックのようなものを自らの中に築き上げている。
もちろん、これは一朝一夕でやれるものではないだろう…。
今回共に戦うのは例によって全く初めてのチームだが、ただイギリスのチームは僕にとっては比較的やり易いチームと言える。
信じられないことに、もうここ十年くらいは毎年違った国の、違ったチームからほぼぶつけ本番でレースを戦っている。これは想像以上のアドベンチャーでもあるのだが、そんな決して簡単とは言えない挑戦と変化が、いつも僕に純度の高いインスレピレーションを与え続けてくれていると言っていい。
水曜日にはいよいよサーキット入りだ。
新しいチームメンバーとの顔合わせにミーティング、そしてレースで使用するシート作成などなど、サーキットに到着してからやることは山のようにある。
そして、ここからの戦いでは絶対にミスは許されない。
このレースウィークは普段何気なく通り過ぎていくような一つ一つの作業すらも、僕にとっては重要な時間になる。今回初めて握手を交わしたチームとの関係をレースウィーク期間中のごく短い時間で良好なものに築き上げていかなければならない。
集中力と経験を要する作業ではあるのだが、今ではそんな難しい作業も結構楽しみながらやれるようになってきた。
元来、人と接するのが苦手な僕がよりにもよってこんな形で変化してきているのに驚きだ。(笑)これもやはり継続は力と言うことなのだろうか。
そしてその原動力は夢や目標を持ち続けることに他ならない。
水曜、木曜の2日間で、そのチームの大体の癖のようなものが見えてくる。
それはエンジニアだったり、メカニックだったり、チームオーナーだったりもするのだが、チームには必ずそれぞれの色のようなものが存在する。まずはそれを見極めることが重要だ。
光陰矢の如し、走行が始まれば、あっという間にレース終了まで時間が過ぎてしまうことになるだろう。
勝負はサーキットに到着して、メンバーと握手を交わした瞬間から始まっているのだ。
一年中同じチームで走り続けられるのであれば、多少はゆっくりと仕事を進められるのだろうが、僕のような戦い方の場合はそんな余裕などどこにもない。この緊張感はなかなか他では味わうことが出来ないものだ。
金曜日にはいよいよフリープラクティスがスタートする。
ミーティングでマシンに関する予備学習は十二分に済ませてある。今回ドライブする「ORECA 05」は僕にとって初のドライブとなるマシンだ。
今年のルマン24では「ORECA 03R」を駆ってレースに参戦したのだが、この新型の05マシンとの差には愕然としたのを覚えている。その新型マシンをここ富士にてドライブ出来るのは嬉しい。
余談なのだが僕は普段の生活で乗る車に関しては、正直なところ大きなこだわりはない。
もちろん車は大好きなのだが、11歳でカートを始めて以来長くレーシングマシンを走らせてきた僕は、普段街中で運転する車には何故かあまり興味を持つことがなかったのだ。少し驚かれるのだが外車がいいとかスポーツカーがいいとか、そんなこだわりも全くといって良いほどない。(苦笑)
ただ、サーキットで走らせるレーシングマシンに関しては全く違う。そこにははっきり言ってこだわりしかない。(笑)
僕の場合、ドライバーを完全に引退したら普段乗る車にも異常なこだわりと興味が湧いてきそうな気がする。そんなことで、楽しみはその時まで取っておこうと思う。
金曜日の天候は晴れ、雪化粧前の富士山も綺麗に見ることが出来る。
まずはドライコンディションの中、初めてのORECA 05マシンの感触を確かめるようにゆっくりとコースイン。
富士は昨年のアジアンルマン以来の走行だ。
WECへは2013年以来の参戦になる。2013年のWEC富士は、台風によりレースが中止になってしまったことがまだ記憶に新しい。
この週末はどうか天候が持ってくれますように…。何よりもサーキットに応援に来て下さっている観客の皆さんの為にも天候は最後まで持ってほしい…。
短い走行時間の中でマシンの感触を確認すべく少し慎重にラップを重ねる。まず気になったのは、マシンのコクピットからの視界の悪さだ。
今回ドライブするORECA 05は、03の旧型マシンがいわゆる屋根がないオープンタイプなのに対してクローズドボディを採用しているのだが、コクピットのウインドウ部分が極端に小さい。これに慣れるには少し時間がかかりそうだ。
マシンの感触は可もなく不可もなくといったところだろうか。チームのイニシャルのマシンセットアップは、ここ富士の特性にマッチしているようには思えない。これは走行前のミーティングで既に僕がチームのエンジニアに指摘していた部分だ…。
今回のチームメートは2012年にここ富士のWECで共に戦い、優勝を飾っているトー・グレーブス、そしてもう一人は今年GP2に参戦中のアレックス・リンだ。
イギリス人のアレックスはウイリアムズF1のテストドライバーでもあり、トヨタのルマンプログラムにも関わりがあり何度かテスト走行もこなしているとのこと。先日アブダビで行われた、GP2の最終戦でも優勝を飾っている絶賛売り出し中の若手ドライバーだ。
僕にとっては今の若いドライバーのドライビングスタイルを近くで見られるいい機会にもなる。こうして若く元気のいいF1に近い選手と共に仕事をすることは、45歳の大ベテランにとって大きな刺激になるだろう。
たかだか年に数回のレーシングマシンのドライブしかしていない僕が、そんな現役バリバリの選手に容易に勝てるとは思えないが、それでも今の自分の実力がどれくらいのものなのかを冷静に見つめなおすには最高の舞台にもなるだろう。
1回目のフリープラクティスを終えて、チームとのミーティングが始まる。
今回チームは2台のマシンを走らせているため、ミーティングは2台のマシンのエンジニア、ドライバー達が全員揃って行うことになる。
それぞれのドライバー達がマシンのフィーリングをエンジニアに伝え、そこで色々なディスカッションが始まるのだ。
今回同じチーム内でもう一台のマシンをドライブするのは、元F1ドライバーでもあるスペイン人のロベルト・メリ、過去に日本でもFニッポンをドライブしていたことがあるイギリスのリチャード・ブラッドリー、そしてイギリスの若手ドライバーのマット・ラオ、リチャードはルマン24でも優勝を飾っていて、ここ数年スポーツカーレースで成長著しいドライバーだ。
こうして見てみるとチームはかなり能力の高いドライバーを揃えてきているのだが、ライバルチーム達のドライバーも元F1ドライバーから現役バリバリの若手GP2ドライバーまで、優秀でバラエティー豊かなドライバーが揃っているのが年々激しさを増す現在のWECのLMP2クラス。そう、僕が参戦しているレースだ。LMP2のドライバーのレベルは、LMP1クラスと遜色ないものになっていると言っても過言ではないだろう。
しかもマシンのレベルが非常に拮抗しているため、6時間を通しての戦いは、毎回最後の最後まで分からないものになっている。
BOPなどでの性能調整で不透明な部分がどうしても残ってしまう近年のGTレースと比べると、非常に公平でバランスの取れた争いが期待できるため、参加者、チームにとってもっとも魅力的なカテゴリーになっている。
それはヨーロッパにおけるGTマシンのルマンシリーズへの参加台数の減少と反比例して伸び続けるLMP2クラスの参加台数が如実に表している。
話を戻そう。
僕は与えられた走行時間をノーミスでフルに使い、まずは初めて走らせるマシンのフィーリングを確認することが出来た。
この後トーにバトンを渡し、引き続きマシンの確認作業を行うことに。彼は我々45号車のドライバーの中で唯一今年の開幕からこのマシンをドライブしているドライバー。
このマシンに対するノウレッジが多いであろう彼のマシンに対する意見を聞くのが楽しみだ。僕はまだ少しマシンを走らせただけではあるが、すでにマシンの問題点を何となくではあるがイメージ出来ている。
トーの走行後はアレックスにドライバーチェンジ。現役GP2ドライバーで、ウイリアムズF1、トヨタのルマンマシンでもテストを行っている彼のドライビングも僕にとってはとても興味深いポイントだったりする。
ところがアレックスが数周したところでピットに戻ってきた。どうやらマシンに問題が起きてしまっているようだ。チームはピットにて修復を試みるが、原因を把握することが出来ない。
結局アレックスのドライビングはここで終わってしまう。これはチームにとってもドライバーにとっても痛いタイムロスだ。
セッション後のミーティングではドライバー全員が順番に、それぞれのマシンに対するコメントを話すことから始まる。
このチームでは2台のマシンのメンバー全員が揃ってのミーティングを同時に行う。
これはお互いのマシンの状況を掌握するうえでは有効だろう。マシンに対するコメントは大体どのドライバーも似たり寄ったりと言ったところだろうか。ここからどのようにエンジニアがマシンを作り上げるかが重要だ。料理であれば、食材は揃ったけど、どんな料理に仕上げられるかになるだろう。
今回の僕の担当エンジニアは少々考え方に柔軟さが欠ける印象だった。彼は非常に保守的な考え方の持ち主ではないかと想像する。このようなタイプは結構仕事の進め方が難しいことが多かったりするのだ。(笑)
時にそんな性格もプラスに転じることがあるのだが、たいていの場合時間のない中で物事を進める際にはマイナスになることが多い。今回の成功のキーになるのはこのエンジニアとのコミュニケーションになる予感がする…。
午後から行われた2回目のフリープラクティスでは、トラブルもなく3人のドライバーがそれぞれの役割を無事に終えることが出来た。
僕はレースセットを担当して、アレックスが予選用のマシンでの走行を担当する。トーはシルバーステータスのジェントルマンドライバー扱いなので、ルール上アレックスと共に予選を戦うことになる。
現在LMP2クラスでは、シルバーステータス以下のドライバーを最低一人はチーム内で走らせなければならないというルールと、予選でも必ず一人はシルバー以下のステータスのドライバーが走らなければならないルールになっている。
ステータスを簡単に説明させて頂くと、WECに参戦している全てのドライバーは、過去のレースキャリアによって格付けされていて、ブロンズ、シルバー、ゴールド、プラチナの4つのステータスに分けられる。
ちなみに元F1ドライバーである僕はプラチナのステータスとなっているのだが、もう10年近く年に数回しかレーシングマシンを走らせていないのだから、ブロンズ辺りに降格してくれても良いのだが…。(笑)内情を言うと、速さのあるブロンズ、シルバーあたりのドライバーというのがレースにおいての勝負の鍵を握ることが多く、どこのチームもドライバーラインナップに欲しくて仕方ないのだ。
このセッションで僕は引き続きマシンに慣れることと、レースに向けたセットアップをイメージしながらのドライブに集中。タイヤも周回を重ねたものを使い、燃料の搭載量も多めの重いマシンでの走行だ。
セットアップの変更がまだ僕の望むところまで来ていないので、フィーリングに関しては完全ではないが想定内と言ったところ。後はエンジニアが聞く耳を持ってくれるかどうかでセットアップを進めるスピードが変わってくるだろう。
このセッションではアレックスとトーも順調に走行を重ねることが出来た。アレックスはニュータイヤでの走行も経験して一気にペースを上げてきた。流石はF1クラスのドライバーだ。
2回目の走行を終えて、再び明日の3回目の走行へ向けてのミーティングが始まる。
もう一台のマシンのエンジニアは対照的にアグレッシブに物事を進めていくタイプ。
エンジニアにも色々なタイプがあって面白い。僕は後者の方がやり易いのだが…。
まあ決勝までには理想の車を作る上げることが出来るだろう。今はエンジニアの気持ちが変わるまで気長に待つしかない。
僕の中でのセットアップのイメージは既に出来上がっており自信がある。だがヒューマンゲームでもあるモータースポーツにおいて焦りは禁物だ。急いては事をし損じる。
このあたりの心理戦も今ではだいぶ心得てきた。
プライドという最も厄介な敵とどう戦うかが重要であることを、ヨーロッパの人間と仕事をするときには絶対に忘れてはいけない。彼らは一様にエベレストのようにプライドが高いのだ。(苦笑)
走行2日目を迎えた富士スピードウェイ。
この日もどうやら天気は良さそうだ。2013年のことがあるので、毎朝目が覚めたときに雨音が聞こえてこないだけでホッとしてしまう。
この日はプラクティス3と予選が行われる。僕は予選を担当しないので、出番は午前中の走行だけだ。
昨日に引き続き僕はレースのセットアップと周回を重ねたタイヤでのマシンのフィーリングを確認する。セットアップも少しずつであるが僕のイメージする方向に向かっており、マシンのフィーリングはこの3回の走行の中ではベストなものになっている。
このセッションではトーもニュータイヤを装着しての走行を行い、予選への準備を行うことに。アレックスも燃料を減らして予選モードでの走行を行っている。
レースへ向けてのセットに関しては、幾つかのファインチューニングで問題ないだろう。
僕の中でイメージは完成している。
午後から行われた予選においては、アレックス、トー共にまずまずの走りを見せ、7番手で終えることに。
アレックスは初めてのマシン、そして富士であることを考えればかなりいい走りだ。もう一台のマシンで予選を担当したロベルトとほぼ同タイムをマークしている。
ロベルトも今回が富士は初めてだが、今シーズンは開幕からこのマシンをドライブしておりアドバンテージがある。今回が初めてのLMP2マシンでもあるアレックスの能力の高さが際立っているといっていいだろう。トーのタイムは少し伸び悩んだが、勝負はここからだ。
走行後にはサイン会なども行われ、今回富士を訪れて下さっていた沢山のレースファンの方達と接する機会もあった。
僕は他のドライバー達がいなくなった後も最後の最後までピット前に残り、僕のところまで来て下った全ての方達にサインをさせて頂いたのだが、これはこうしてレースを楽しみに来てくださっている方々へのささやかなお礼の気持ちでもあります。
毎年富士には地元の小学生も遊びに来てくれる。彼らは全てのチームへの応援の絵画も用意してくれているのだ。とても素晴らしい試みだと思うのと同時に、こうした機会がもっと増えて欲しいと心から願う。
日曜日、朝起きていつものように部屋の窓を開けてみる。
どうやら決勝日も雨は無さそうだ。
サーキットに着くとすでに沢山のお客さん達がお目当てのマシンやドライバーを見るべくピットウォークに訪れている。
もう何十年もレースを続けさせて頂いているのだが、こうしてサーキットで笑顔のレースファンの方達に接する機会があるのは嬉しい。
スタートはアレックスが担当する。
今シーズンは名門DAMSからGP2にも参戦している彼のスタートに期待がかかるが、少々気がせいたかオープニングラップで他車と接触してしまう。
この接触によりまさかの最後尾まで順位を落とすが、そこからのペースはトップと変わらないところで追い上げを開始する。
ラップタイムも安定しており、流石はF1に近い現役バリバリの若手ドライバーだ。
3つ4つほど順位を取り戻したところで予定通りのピットイン。トーへとドライバー交代だ。
だが、ここでトラブルが発生してしまう。
エンジンがスタートしない!
無線からトーの声が聞こえてくる。
チームからの指示で幾つかの方法でのエンジンスタートを試みるが、一向にエンジン音が聞こえてくる気配がない。
一斉にメカ達がマシンに集まり原因を探し始めるのだが、簡単には見つけられそうにない。無情にも時間だけが過ぎていく…。
45分程が経過しただろうか、最終的にエンジンスターターを交換することになり、ようやくエンジンに火が入る。
6時間のレースとは言え、この1時間弱のピットロスは完全に勝負権を失うことを意味する。まだ僕は1周も走っていないのに…。
言葉が見つからない。
ただ、これも物を使うスポーツの宿命なのだ。
エンジンに火が入り再び戦列に復帰するにあたり、急遽チームはトーに変わり僕を先に走らせるとの判断を下した。
僕の母国日本でのレースということもあり、万が一再びトラブルが発生した時のことを考えて先に走らせようとの判断だった。急いでヘルメットを被りマシンに乗り込む。
レースの勝負権は失ってしまったが、こうしたチームのちょっとした気遣いは有難い。
僕はここからの2スティント、1時間半のドライビングで自分自身の力を証明しなければならない。
週末に入って初めてとなるニュータイヤの感触を確かめながら、少し慎重に走行を開始する。マシンのフィーリングは悪くない。僕が週末を通してマシンのセットアップに関してエンジニアに訴え続けていたことが最終的には形になっている。
数周したところで同じチームの44号車と遭遇する。
上位を争う44号車を先に行かせて、そこからはこのチームメートのマシンを追いかけながらの走行だ。ルマン24でも優勝を飾っている44号車をドライブするリチャードは、スポーツカーレースのスペシャリストと言ってもいいだろう。
今シーズンも1年を通してこのチームでドライブを続けていて、チームもマシンのことも知り尽くしている。まずはこのチームメートのペースに自分のペースをマッチさせることが出来るかが僕にとっての第一関門だ。
初めてのチームに初めてのマシンでのドライブは、ここ十年ほどずっとぶつけ本番での戦いを続けてきた今の僕にとってはそれほど問題ではない。ただ相手はかなりの強敵だ。
数周ほど様子を見ながらの走行を続けてみるが、どうやら2台のペースはほぼ互角のようだ。
お互い得意、不得意なセクターが違っていたりするのだが、一周を終えるとほぼ同じラップタイムを刻んでいる。このラップタイムは僕の参戦しているLMP2クラス全体でもトップを争うものだった!
これには正直自分でも驚いているのだが、同時にこうした結果がどんな形であれ僕にドライバーを続けるための大きな自信を与えてくれているのも事実だ。
普段はレーシングマシンに乗れる機会もないので、僕にとってのレースのためのトレーニングは月に1、2回のカートだけになっている。僕は今でも自分の原点であるカートを大切にしていて、可能な限りトレーニングを欠かさないようにしているのだが、僕のドライビングが年に1、2回のレースカーのドライブだけで酷く錆びつくこともなく、ここまで続けられているのは他でもないこのカートのお蔭だろう。
リチャードとのランデブー走行は、燃料給油のためのピットインで一時中断だ。ルール上の使用制限があるためここでタイヤを交換することは出来ない。
そのため1スティント目にプッシュし過ぎるとタイヤの摩耗が進み、2スティント目の走行が苦しくなる。速く走らせながらも、いかにしてタイヤの摩耗をセーブするかがポイントとなる。
2スティント目はピットアウトのタイミングもあって、ほぼ一人旅のドライビングとなってしまう。途中レースリーダーが後方に近づくこともあったのだが、結局最後まで誰にも先を譲ることなくハイペースをキープしたままでの走行を続けることが出来た。
自分で言うのも何なのだが、タイヤマネージメントは完璧だった。
この2スティント目に入ってからの走行中のベストタイムは、気温が低くなったレース後半に再びステアリングを握ったアレックスがガソリンの搭載量を減らして叩き出したタイムを除いては、僕のタイムがチーム内での最速タイムでもあった。
このレースで優勝を飾ったチームと比較しても、そのラップタイムがほぼ互角だった。
1時間半をノーミスで走り切り、与えられた2スティントを完璧に走り終えてピットに戻る。
僕の持てる力を全て出し切ることが出来た最高の1時間半だった。
ここからはトー、そしてアレックスとバトンを繋ぎ、無事チェッカーを受けることが出来た。
レース後半の気温が下がったタイミングで再びステアリングを握ったチームメートのアレックスは、レース全体のファステストラップも記録していた。
「タラレバ」はご法度の世界ではあるのだが、マシンにこのペースがあれば我々が望んでいた結果が手に入れられたはず。
本当にレース前半のトラブルが悔やまれる…。
しかしながら急遽参戦が決まった今回の富士では、自分自身にとってはポジティブと思える部分が多々あったのも事実。
今年のルマン24での苦しい戦いから考えると、今回の富士では自らに再び大きな自信を手に入れることが出来た。
僕のような戦い方を続ける場合、この自信がもう少しドライバー続けるべきか否かを判断する上での大きな選択基準にもなるのだ。
ここ十年くらいは年に数回しかレーシングマシンをドライブしていない僕なのだが、どんな理由であれ、速く走れなければドライバーを続ける資格はなくなってしまうだろう。
この一戦一戦が毎回僕にとっては本当にシビアな戦いになっているのだが、この得も言われぬ突き抜けるような緊張感は、言葉では言い表せられない。
今回の富士で勝ち得た自信が2017年のルマン24での戦いに繋がると信じて…。
最後に、この場をお借りしましてお力添えを頂きました関係各位に厚く御礼を申し上げます。
深謝
中野信治